おさんぽ


することはあるけれども気がむかず、ちょっと気分がだらけていたので、おさんぽしてみた。
天現寺橋から東に入って、The New Sanno Hotelの横からフランス大使館の裏に入って、すごーく高そうな清水という料亭の前を通って、…うろうろうろうろしていた。

次に、パリを長散歩する時期がきた。どこへでも、きまぐれに任せさまよい歩き、会社帰りの人々のごったがえす中に突っ込んでいた。店の前をだらだら歩き、画廊すべてに入り、9区のアーケードをゆっくり通って、ひとつひとつの店の前で立ちどまった。同じだけの注意をもって、じーっと、家具屋のほこりっぽい洗面台や、寝具職人の店のベッドヘッドやばねや、葬儀屋の造花の花輪や、裁縫用品店のカーテンレールや、新しもの屋のえっちなトランプや、黄色くなりかけの美術工房の宣伝写真(悪趣味な仕立てのセーラー服を着たまんまるな顔の悪童、クリケット帽を被った醜い少年、しし鼻の若者、新品の車の脇に立っている割と頑固なブルドッグ的男性)や、豚肉屋のラードでできたシャルトル大聖堂や、ギャグ用品店の窓に飾ってあるユーモラスな名刺や、組版屋の窓の便箋や通知のサンプルを、凝視していた。


ときどき彼はしょうもない制限を自分に課した。17区のすべてのロシア料理店の一覧をつくるとか、すべてを一度ずつ通ってしかも通ったところは二度と通らない行程をつくるとか。けれども普通は単純な目標を選んだ。147番目のベンチとか、8237段目の階段とか。そして、シャトーランドンあたりのベンチの緑の板の上でライオンの前足をかたどった鋳物の金具と一緒に数時間過ごした。商店用品店の前で切り株みたいにじっと立って、くびれた腰のマネキンや陳列棚自体を陳列している陳列棚や、他にもあらゆる種類の吹き流しやステッカーや看板を、何分にもわたってじーっと眺めていた。まるでこの種の店頭に内在する論理的矛盾について黙考し続けているかのように。


のちに、部屋にこもるようになり、少しずつすべての時間感覚を失っていった。ある日、目覚し時計が5時15分のところで止まってしまい、面倒で二度と巻き上げなかった。あるとき灯りが夜通し点いていた。またあるとき、1日、2日、3日、そしてついにはまるまる一週間すぎても、廊下の端にあるトイレに行く以外、部屋を出なかった。あるとき午後10時に部屋を出て、翌朝、なにも変化せず、眠らずに過ごした一夜の跡をとどめずに、帰ってきた。グランブルバールの消毒薬が臭う映画館で映画を観た。終夜営業のカフェによく現れ、何時間もぶっつづけでピンボールをしたり、陽気に楽しんでいる人や陰気にやけ飲みしている人や太った肉屋や船乗りやを充血した目で睨んだりしていた。


最後の半年、ほとんどまったく外に出なくなった。ときおり、パン屋で目撃された。20サンチームのコインをカウンターのガラスに置いて、もしパン屋の女性が不審げな視線を向けると(最初の二、三回はそういうことがあった)、枝編み細工のかごに積まれた長いパンをあごの動きだけで指し示し、一本の半分だけ欲しいということを左手のはさみを使うような動きで示した。


もう誰にも口をきかなかった。話しかけられると、低いうなり声のようなものでしか返事しなかったので、誰しも会話する気をなくした。ときおり、ドアをほんの少し開けて踊り場にある蛇口のところに誰もいないのを確かめてから、ピンクのプラスチックのボウルを水で一杯にするところが、目撃された。


ある日、左隣に住んでいたトロヤンが午前2時ごろに帰ってきて、この学生の部屋の灯りが点いているのに気付いた。トロヤンはノックした。返事は無かった。もう一度ノックした。すこし待った。ドアを押し開けた(ちゃんと閉まっていなかった)。すると、グレゴワール・シンプソンは眠っている子供のようにベッドでくるまっていたが、目は見開いて、中指と薬指にはさんだ煙草を吸って、スリッパを灰皿代わりにしていた。トロヤンが入ってきても顔を上げなかった。気分が悪くないか、水が欲しくないか、何か必要なものはないかと聞かれても返事しなかった。死んでいないか確かめるかのように、そっと肩に触れられてはじめて、ばさっと寝返りを打ち壁に向かって、「出てけ」とささやいた。


数日後、彼は完全に消えて、その後どうなったか誰も知らない。このアパルトマンでの一般的な意見は、彼は自殺したというものだった。カルディネ橋駅から飛び込み自殺したのだと言う者もあった。しかし、誰も証拠を挙げなかった。

Georges Perek: Life A User's Manual, Chapter 52 "Plassaert, 2" (部分).