長いよ

今夜は長いぞ。

明日の(今夜だと思ってたが違った)午後11時からプログミングのコンテストが始まるので、体内時計の調整のために、もうちょっと起きて ないといけない。

酔っぱらっているので、日本語以外、書けない。こういうときには、週記でも書いているに限る。



ぴらぴらに恋人がいたとして、ぴらぴら週記に書けるよりも面白いことを話せるだろうか。うーむ。

たしかに、相手によっては、ぴらぴら週記を書いているときよりも、いろんなことを喋っていることがある。しかも状況によって、ずいぶ んいろんなことを喋る。

だが、まぁ、よくわからない。相手次第なところが多分にある。


たしかに、ぴらぴらしているとか、変だとか、ちょっとかわいいとか、特質がないわけではないのだが、しかし、これらのぴらぴらの特質 は、別に付き合わなくっても観察することができる。


そういうわけなので、僕にたしかにできることといえば、できる限り相手のことを理解することなんだろうなと思う。そうするのは好きで もある。

ただ、なにか言われて、聞き返してしまうことがしょっちゅうあるのが困ったところだ。そういうときには、たぶん、人の話を聞いていな い人だと思われているに違いない(し、実際そうであると言っても間違いではない)。

ぴらぴらの変な性質の一つとして、人の声が言葉になるのに、一秒程度かかってしまうことがある。波形から音素になるのに、そのくらい 時間がかかってしまう。そのせいで、ちょっと昼あんどんな感じがする。

さらに変な性質として、ときどき、3ヶ月も前に言われたせりふを思いだして、「あれはああいう意味だったのか」と納得している。これまでの最長記録は、3年程度前に言われたことの意味を理解していた。


そういうことを考えると、あんまり話し相手として適しているとも思われない。ぴらぴらは貴方にとって、何者になれるのか、よくわから ない。書かれたものを理解するのは得意である。交換日記の相手には、なるのかも知れない。

気のむくままに言いたいことを喋っているという点では、教祖というのは有力な選択肢の一つではあるが、それを主な職業にしたいとは思 わない。

今夜は、たがが外れたように大量に書くつもりなので、暇のない人はあとまわしにして欲しいと思う。



頼られると、なかなか断れない。それどころではなく、落ち込んでいるときに頼みごとをされると復活してしまったりする。けれども、そ の復活によって元気になった度合いと、その復活をとげるために引き受けた仕事の量を比較すると、仕事の量の方が多い場合がほとんどで ある。これを繰り返している限り、救いはないのかも知れない。なので、頼みごとを無条件に聞く相手を絞るのがいいのかも知れない。

おそらく、頼みごとを断われないタイプの人というのは、鬱病になりやすい。僕は、自分が欝なのかどうかはわからないけれども、朝なか なか起きられなかったりとか、なにもする気がなかったりとか、典型的な症状はみられる。

ただし、朝起きられない原因が前の日に早く寝ていなかっただけだったり、なにもする気がないのが普段の状態だったりするのが、救える ところである。

しかも、なにもする気がない場合に読んでいるものが、将来役に立っているケースが多々ある。

小学校の5年生くらいのときに、なにもする気がなくて読んでいた述語論理の本のおかげで、中学以降、ずいぶん楽に勉強をすすめてくることができた。逆にいうと、あのとき悟ってから、あんまり進歩していないのかも知れない。

中学3年くらいのときに、なにもする気がなくて、英英辞典を読んでいたら、英語を読むのに慣れきってしまった。

そういうわけなので、なにもする気がおきないのが悪いことだとは思わない。



頼まれると弱いのである。実はこれは、頼みごとをされると、なにもする気がおきないときに練習しておいたことの効用を人に施すことが できるから、嬉しいのかも知れない。でもまぁ、それだけではないな。たぶん。そういう特殊能力が必要なことでなくても、甘えられたら それだけで嬉しいのだと思う。

これは、言ってみると、裏返しの依存であるような気もする。しかし、そんなに頻繁にぴらぴらに頼ってくる人はいまのところいないので 、別になんともない。

しかし、損な性分ではある。下手に技術を身につけてしまうと器用貧乏になる類の性格だ。

ところで、器用貧乏な人というのは、なにを損しているのであろうか。一見すると、自分の楽しいことを使って人に頼まれたことをして、 暮らすのは楽しいことであって、その量が増えることに、なんの問題もないように思える。

思うに、器用貧乏な人というのは、自分の世界を広げる機会を失っているのだと思う。自分が得意なことを用いることに満足して、その範 囲内で生活して、その範囲内の生活が充実するに従って、範囲の外で活動する時間を失っていってしまうのである。長い目でみると、今い ろんなことができるけれども器用貧乏になってしまっている人と、今はそんなにたくさんのことができないけれども自分の世界をぐんぐん 広げている人とでは、自分の世界を広げている人の方が、大成する気配があると見ていいんじゃないかなー違うかなーと思う。

さて、ここで、ぴらぴらは器用貧乏なのであろうか。うーん。たぶん、器用でないから違うのであろう。しかし、自分にとってはあまり特 にならないことに気合を入れている点では似ているかも知れない。



あー。ここにこういうことを書いていることに、なにか積極的な意味はあるんだろうか。しかし、ここに述べたようなことを延々個人的に 言われたら、気がめいってしまうというか、あんまり相手をしたくなくなるような気がする。そうではないだろうか。

ぴらぴら、低徊している。つまり、うろうろしている。

低徊という言葉をはじめて見たのは、漱石だったか、芥川龍之介だったか。あ、たしか、羅生門だった。雨のなか、盗人になろうかやめよ っか考えていたのだった。


ぴらぴらは盗人になる気はしない。しかし、これまで守ってきた規範の中で生きつづける必要はないと思っている。おそらく、その転換に は他者が必要である。

その人の話を聞くことによって、その人の論理を吸収することによって、その人の感情を受容することによって。戦うことによって。そし て身を投げうつことによって。


そんなもの わざわざ鳥にならずとも ヤカンになって飛べばよろしい

ヤカンが飛ばなくてはならなくなったのは、花に水をやるためであった。花がなくては、ヤカンは台所に鎮座していただけであろう。


実は私は浮遊するヤカンなのだが、目的地がないために、浮遊しているだけである。ときどき高速回転するけれども、その後疲れてぐった りしていたりする。

しかし、それでは、遠く海の上を浮遊するUFOとまったく変わりがない。UFOというのは、飛んでいるだけでは面白くなくて、ここまでやっ てきて、誰かが降りてきたりとか、誰かを連れさったりとか、そういうことをしてくれないと面白くない。

同様に、ヤカンも、ふわふわしているだけでは、あまり面白くない。どこかに飛んでいきなさい。



このヤカンの話がどういう意味なのかというと、ヤカンというのは普段はなんとなく陰気なものである。ぴらぴらは、ちょっと前に精神的 にぐったりしていて、紙に「虚しい」と100回くらい書いていたら、だんだん楽しくなってきてしまった。こういうのを、ヤカンが高速回転しているというのである。中の水がこぼれるばかりである。

ただ、ちょっとわかってきたのは、僕はものを書くのが好きであるらしいということだ。ただ「虚しい」と書くだけの単調な作業ですら、 なんだか楽しくなってきてしまうのである。

楽しくなってきてしまった理由は他にもあって、「虚しい」という字を何度も何度も繰り返し書いていると、だんだん文字が文字に見えな くなってきて、なにをしているのかよくわからなくなった。しばらくすると、また「虚しい」に見えた。なんだか、虚しいに見えたり虚し いに見えなかったりするのである。虚しさなどというのは、そんなものに違いない。

どういうことかというと、あるものの意味というのはそのもの自身の中に存するのではなくて、そのものとそのものを相手にする人(ネコ)との間に存在するのである。(まぁ、ものが大腸菌にとって持っている意味というのは、人が観察してやらないと、ぴらぴらに理解できる意味にはならないが。)

したがって、意味の不在であるところの虚しさというものも、虚しさ自身が虚しいのではなく、虚しさの虚しさを虚しいと思う人がいてこ そ、虚しいのであって、そこらへんが虚しさの虚しさであるゆえんである。

すなわち、虚しさは虚しさだけでは存在できない。


上記のようなことを書きしるすのは、ヤカンの高速回転である。ヤカンは、せっかくなにかに水を与えるという力を持っているのに、ぐるぐるまわっている。ぴらぴらは、せっかく人のことを理解できるかも知れないのに、ぴらぴら言っている。

そういうわけなので、こんなに長い週記を書くのは、年に1回か2回にしようかと思う。