嘘と演技

考えはじめるととまらないことがたまにある。今回もツボを刺激されてしまった。笑いのツボと同様、ここがツボである理由は、なんとなくわかるが、結局のところはよくわからない。
たいていは書いてしまうとおさまるので、書きながら状況を整理してみることにする。


a.昨日かんがえていたこと

演技しているとき、嘘はつけない。
舞台で大声で嘘を叫んだとする。聴衆はそれも演技の一部とみなし、だれも本気で嘘だとは思わない。表現の一部として、演技のなかの嘘でない部分と同様に解釈される。あれは嘘だったと言っても、それが嘘だったことにはならない。嘘だったと言う演技になるだけだ。

演技をしているときの言葉は行為の一部である。なにか言うのは、ボールを蹴るのと同じで、嘘も本当もない。


b.さっき考えたこと

a.で述べたことは、わりとかっこいいが、ほんとうだろうか。

たとえあくびをするときにも、ほんもののあくびと、にせもののあくびがあるのだ。
眠るのにも、ほんものの眠りと、たぬきねいりがあるのだ。

「あくびをしている演技をしている」とみせかけて、
「じつは、ほんとうに眠い」ということもある。

したがって、演技しているときにも、嘘をつくことができる。


c.発展

b.で述べたことも、わりとかっこいいが、ほんとうだろうか。
演技をしている演技をしている。それは嘘である。たしかに。
しかしこれは、問題を二重にしていて、a.で問われたことに真剣に答えていない。

a.で問うているのは、
演技をしている演技の中の、ほんとうの部分と嘘の部分に、差はあるのかということ。
嘘をついている側は嘘のつもりだが、観客は本気でとる。
演技なのか演技でないのか、を判断する権力を、演技する本人が持っている場合はよい。しかし、そうではない場合がある。


生活している場と、舞台に差はあるか。あまりないように思われる。
ドクター・ジグムント・カールスフォーファー・(わすれた)・アーネマコッツァン・
ポーツネル(=ドクターぽち)を演じていたときも、ぴらぴらしているときも、
基本姿勢は変わらない。
また、ぴらぴらが家族の家族のふりをしているような気がすることも、たまにある。

結局なにが演技でなにが本当か、という区別はよくわからない。
どれも、ほんもののように思われる
(ぴらぴらがいつでも似たような存在だからよくわからないだけで、
ひごろむりやり演技している人は、よくわかるのかもしれない)。
ここのところでぼんやりしていられるのは、しあわせである。


d.まとめ

わりと怪物観念っぽいあやしいものに、出会った気がする。
あやしいものがすきなのは、こまったことである。